川崎仙台薪ストーブの会:賽の河原と伐採地・小屋の変遷

霧雨 昼食後次第に小雨に近くなり、早めに切り上げました。が、帰途笹谷街道の松並木あたりから先は道路も乾いていました。腹帯は山の気候です。

前回来たのはたった一週間前だったはずなのに今朝来てみたら


いつのまにかターフがはられ、休憩場所兼道具置場ができていました。
いつのまにか薪の山ができていました。
いつのまにか切れたクローラのベルトが付け替えられていました。
いつのまにか道が拡げられていました。皆og氏の仕業でしょう。ok氏も一枚かんでいるかも。


そして午後になったらいつの間にか朝は通ることができた道が玉切材で埋め尽くされていました。賽の河原です。お地蔵様、お助け下さい。こうなると神頼みです。ん?お地蔵様は神様ではない?


 今日は雨ではないとの予報で15名が集合。(左上より時計回り)まずはぐじゃぐじゃで車を乗り入れられない道端のスペースに枝、砂利などを入れて地盤改良。そのうち馴染んでくるでしょう。薪割り、玉切、その運搬、玉切材を沢から引き上げ等々各自が手分けしての作業です。作業終了時。自主性を重んじる人ばかりなので全員がカメラの方向をみることはあり得ません。手前の3人は架け替えるべき橋の構想を練っています。今日の成果。朝とたいして変わらないなんて云わないで下さい。ここは日当り、風通し共に悪いので次回は運びださないと。でもどこに?

ところで - - - 全く人間の記憶はあてにならないものです。小屋や薪棚が吹飛ばされ、たくさんの大木が根こそぎなぎ倒された爆弾低気圧のことが前回のB作業で話題になりましたが、その正確な日時(2012/4/5-6)はおろか3/11の前か後かすらうろ覚えでした。そこで古い記録など引っ張り出してみました。

 薪の会の第一回活動日は2007/11/18で出席者45名、第二回が12/9で40名でした。随分と盛会だったんですね。現在の参加者が何故当時に及ばないのか考えてみる必要がありそうです。


 図は今見ることができる一番古い2009/8/14撮影のグーグルアースで、薪の会はA B Cの順序で手をいれました。当時はすべて人力で、伐倒に搬出が全く追いつかず、きのこや苔が生え放題の材が至る所に放置されていたものです。そこに登場したのが野猿で、活動日ではない日にひっそり尾根上から水道施設との間の鞍点までごく短い区間でテストしたのが最初だったのではないでしょうか。

 ついでB地区で今の土場に向けて(これは大活躍した)と柳生慎吾の番組のTV収録のためにA地区にはったはずですが、どちらが先だったか。この頃は今の小屋付近は未だ全く手つかずの状態だったことが写真からみてとれます。

このあたり、記憶に誤りがあるかもしれません。もっとよくご存じの方、ご教示お願い致します。
 

次は大震災後、爆弾低気圧前の2011/7/18撮影のものでこの2年間にD(ワンファミリーの方々のお仕事です)やEのあたり、および小屋付近の伐倒が進んだことがわかります。


今の駐車場のあたり(2010/8/25)で、広場を作るために杉を伐倒しています。手前に見える第二の橋は多分この年の春に架橋したもの。第一の橋は7月でした。


小屋も最初は薪棚を2列に並べて横木をわたして真ん中に柱を建て、シートを張っただけの簡単なものでした(2010/10)。壁にあたる部分が薪棚であることが分ります。


一方、薪棚のほうは竹を垂木にしてブルーシートの屋根がある立派なものでした(2011/6)。解像度が悪いが小屋も薪棚もグーグルアースの写真ではっきりとわかります。今日の昔話はここまで。