腹帯の今

晴 時々風花が舞う

 1945年3月10日の東京下町大空襲で私の生家も焼けました。2歳の私を含む家族全員を疎開(今回壊滅的被害にあった陸前高田市小友地区です)させて勤務先に泊りこんでいた父は燻ぶる焼け跡と遺体を避けながら徒歩で帰宅し、僅かに焼残った物置で一晩を過ごしたそうです。そして8月の終戦。私が少年時代に一番頻繁に聞いた言葉は「戦前、戦後」ではないかと思います。“もはや戦後ではない”という言葉が話題になったのは11年後の1956年とのこと。

 これから長い間東北ではなにかにつけ「震災前、震災後」という言葉が使われるでしょう。被災された方々の生活が震災前よりも良くなって“もはや震災後ではない”という言葉を少しでも早く聞きたいな、と思います。

 これ以上遅くなると時期を失するので植菌するという、キノコの会の原木運び出しの手伝い方々伐採地の様子を見に行ってきました。一口に云って無事、です。幾晩も寒い夜を過ごした(あるいは今でも過ごしている)被災者の方には申し訳ありませんが、薪ストーブのお陰でこの震災でも寒い思いをしたり、灯油の残量を気にしたりすることは全くしないですみました。“震災後”も薪作りに励んで幾分なりとも化石燃料への依存を減らすことに貢献したいと思います。

 橋も無事でした。K氏のパンクしたトレーラーが後方に見えます。


 煙をみるとほっとします。